自殺で残された家族と友人のケアとサポートの手引き(9)
(8)← | (9) | →(10) |
自殺の悲嘆
自殺後の悲嘆は他の原因による死の後の悲嘆とどのように異なりますか?
両者の間には相違点よりも類似点のほうが多いのです。どのような原因であれ、死後の悲嘆の強さや持続は、「危険因子」と呼んでいる、悲嘆反応を複雑にする可能性のある条件によって決まります。こうした因子(前述)が存在すると、家族や友人からの支援以上の支援が必要となるでしょう。
以下にこれらの因子をまとめます。
・突然の予期しない死
・トラウマ-平常心を失わせるような光景を目撃すること-光景、臭い、音、触覚などが苦痛をもたらす。自殺者の遺体を発見した人はこうしたものによってトラウマを受ける。
・子どもの死
・防ぐことができたように見える死
・残された人の日常生活にとって故人との関係がどのくらい中心を占めていたか(重要であったか)
・故人との関係が両価的であった(一方で愛情を感じながら一方で憎しみを感じる)
・他の危機と同時に起こった(同じ時に他の苦痛な生活上の出来事が起こる)
・役割の減少(たとえば、残された人が、妻、母親、介護者といったアイデンティティの中心をなしていた役割を失う)
・支えてくれる人がいない
・現実性の欠如(亡くなった人の遺体を見ることができない)
・もともとあった困難(過去の喪失体験を解決できていない、アルコールや他の薬物依存、うつ病、人格障害など)
自殺後の悲嘆の場合、家族はこれらの因子の多くに対処することになるでしょう。サポートグループに参加する前に、個人カウンセリングを受けるとよいかもしれません。個人カウンセリングでは気持ちをグループ場面で分かち合う前に、切迫したニーズに対処する役に立つでしょう。
自殺後の悲嘆に特有の特徴はありますか?
自殺後の悲嘆について他の悲嘆「よりもひどい」と表現することは不適切ですが(悲嘆というものはその人の存在の100%をもってしかできないものです)、その悲嘆にはより強かった、長引いたり、手のつけようがない側面があったりします。
家族がしばしば経験するのは次のようなことです。
・死の手段について当惑したり恥ずかしく思い、他人から批判されるのではないかと恐れて真実を話すのをためらってしまう-まるで故人がなにか責められているように感じる
・死を防ぐことができなかった罪責感
・苦痛のサインを「読み取る」ことについての自信を失う
・故人が自分たちに助けを求めることができなかったことから、自分たちには何か欠けるところがあるように感じる
・自分たちも死んでしまったらとか、朝になっても目が覚めなかったらとか願う気持ちが起こり、自分たちも自殺してしまうかもしれないと恐怖を感じる
・自殺の行動が遺伝的な傾向ではないかという恐怖
・故人が死を「選び」自分たちが取り残されたことで、見捨てられた感じ、怒り、あるいは自分たちが不適切であるように感じる
・次々に沸き起こる疑問の輪、すなわち多くの場合に生じる答えのない「なぜ?」、にはまり込む
なぜ私に、私の家族にこんなことが起こったの? その答えをどうすれば見つけることができるのでしょうか?
この「なぜ?」にある程度の答えが、たとえば遺書などに、見つかることがありますが、その答えが満足のいくものであることは稀です。
自殺で残された人には、十分な答えが見つからない、あるいは答えが全く見つからないときの苦しみを理解して話しを聞いてくれる人の助けが必要です。偏見と羞恥心、罪責感と後悔の念、身近な誰かが同じ方法で死ぬのではないかという恐怖、これらによってもたらされる孤独感に耳を傾けることができる人が必要なのです。
情報の断片を寄せ集めて、なぜ自殺に至ったかについての説明にあてることができることがあります。身近な友人、家族、同僚などに見知っていることを尋ねるとよいかもしれません。あるいは、心理学的な知識や人生経験から死の意味を見つけるのを助けてくれるような、信頼できる人に話しをしてみることもできます。
しかし、多くの場合、合理的な説明であっても、次々と「なぜ?」が沸き起こる心のすきまを埋めはしません。
-「でもなぜ私に言えなかったのか、助けを求められなかったのか? なぜ誰も何もしなかったのか?」
「なぜ他の解決方法が見つけられなかったのか?」
「なぜ私はなにも気づかなかったのか、なにもできなかったのか?」
静かで孤独な早朝には、「なぜ」「なに」のつらい疑問に苦しめられやすいものです。絶えず自問してしまいます(男性よりも女性のほうがそうなりやすいものです):「家族のなにが悪かったの? なにか違ったふうにできたのか? なにをしなかったの? 私が悪いの? こうなった理由は・・・?」 こうした類の疑問が、時々に浮かび上がってくるということがずっと続くかもしれませんが、数は減り、強さも弱くなるでしょう。あなたは少しずつ、答えのない疑問を抱えて生きていくことを学んでいくでしょう(共感的なサポートを受けて)。
この非生産的な堂々巡りに割く時間を決めるとよい場合があります。気を紛らわすような活動に取り組む前に、1回に5分間だけ時間を割き、それ以上は時間をかけないというように決めるのです。
でも、どうして見つけて止めなかったのか?
他のところで触れたように、自殺の遺物で困ることの一つに信頼感の喪失があります。他人の気持ちや起こりうる行動についての重要な手がかりを見たり感じ取ったりする能力、あるいは大切な人のニーズを満たす能力についての信頼を失ってしまうことがあります。
自殺を考えている人は誰にも「サインを悟られること」を望まないことがありますし、サイン自体がかすかなもので、技能の高い専門家でも見落としてしまうことがあります。実際、どんなに感受性のある人でも、ストレスを感じている人が、この先、自ら命を絶つ可能性を予測することがいかに難しいかが、研究によって示されています。
他の大切な人が、もしかしたら同じ方法で死ぬのではないかと思うと怖い
自分の人生において大切な人が亡くなったあと、普通、一時的ですが、他の大切な人について過剰に防衛的になるのは、ごく一般的な反応です。 その死が自殺によるものであった場合、防衛は、過覚醒、すなわち悪いことが起こるかもしれないと過剰に警戒するという形をとるでしょう。自殺のサインとなりそうなものに注意深く警戒してしまいます。嘆きが長かったり、普通の悲嘆の言葉(「私が死んだらよかった」「死んだのが私だったほうがよかった」)が不気味な意味合いを帯び、不適切にも、あわてて「ひきとどめ」ようとしてしまいがちです。
当初は防衛心から大切にされていると感じますが、その後、がっかりするようになります。故人と同じように扱われたことで怒り、こんな風に叫びたくなります:「私はあの人とは違うということがわからないの?・・・私は自殺しようと思わないしいつもそんな目で私を見ないで」
警戒心は妥当であることもあります。たとえば、自殺のあと、兄弟姉妹は、よりリスクが高くなります。そして、悲嘆に暮れる親にとって、子供や若い人たちが自分なりの方法で悲嘆するのを見守るのと助けが必要なときを見分けるのとの間で、正しく判断することは難しいかもしれません。
もしも疑わしいときは、あなたの家庭医、ライフラインの人、地域の危機介入チーム、その他のトレーニングされた専門家に話してみましょう。
いつもいつも悲嘆に暮れるのだとしたら、わたしはどうやって乗り越えられるのでしょうか?
最初は、悲嘆が毎日24時間、週7日の体験で、身体面、感情面、知的側面、霊的側面のすべての側面に影響するように感じられるでしょう。悲嘆に暮れながら、休息を望み、「いつまで続くの?」と他人に尋ね続けるかもしれません。
休息を望んでいたにもかかわらず、いざ休息が得られると、罪責感や恐れを感じるかもしれません。というのも、悲嘆が不快なものであるほど、それは亡くなった方とのつながりであり、その関係の重要さを思い出すよすがであり続けるからです。痛みが和らぐと、このつながりが壊されたのではないか、あなたの愛情が信じていたほど強いものではなかったのではないかと恐れます。気がつくと笑っていたり何かを楽しんでいたりした場合も、たとえそれがほんの一時であっても、あなたの大切な人はもう生きていないのに、と罪責感を感じるでしょう。
「このこと」はどのくらい続くのでしょうか?
それが続く限り続きます。 だんだんと、最初はほとんど気づかないほどですが、痛みに触れ、離れるという個人的なリズムができ始めます。これはあなただけに固有のパターンです。
自殺ということやそれに伴う痛みや苦しみ、亡くなった人のこと、あなたの後悔や孤独感について考えるのに時間を費やすでしょう。この作業は耐え難いものですが、これによって故人とつながっているという感覚が得られるでしょう。
苦しみが、もう耐えられるだけのぎりぎり一杯と感じるときは、なにかをして、つらい考えから心をそらし、気を紛らわさなければなりません。このどちらも(痛みに触れることと離れること)が重要な過程なのです。
あなたの悲嘆の気持ちに慣れてきて、またあなたが受けるべきサポートを受けるにつれ、亡くなった方との生活の思い出をより多く思い浮かべるようになります。故人の命がいかに重く、故人とあなたとの関係がいかにかけがえのないものであったかということについての、苦く甘い思い出です。 先に述べたように、あなたは最初はほとんどのことを機械的にこなします。
別離の後の最初の課題の一つは相対的な安心・安全感を得ることです。すなわち、乗り越えられそうもなく見えるのを乗り越える力についての保障で、最初はこころもとないものです。第二の課題は「意味の危機」と呼ばれているものです。以前の信念や考えは、いまや空虚で役に立たず、生きていくための新しい価値と理由に置き換えなければなりません。これによって、大切な人の生と死を理解し、なにかプラスの意味を見つけることができるでしょう。このステップが、あなたが人生に再び打ち込むために必要です。
自殺予防や、あなたのあと、新たに自殺の悲嘆を経験することになった家族をサポートすることで、新たな目的や道を見つけようとするかもしれません。読み物や宗教、哲学から道が見つかるかもしれません。物を書くとかその他の創造活動を通して解放感と達成感が得られるかもしれません。別離の前には知る由もなかったあなた自身の一側面を表現できるようになるかもしれません;しかし、驚くなかれ、人生が再び意味のあるものとして本当に感じられるまでには長い時間がかかるのです(2-5年はかかります)。
うつになったらどうすればいいのでしょうか?
うつという言葉はあいまいに使われがちです。離別した人はしばしばうつを経験し、しばしばなく、ため息をつく、食欲がなくなる、眠れない、脱力感、気分のゆれといったうつ病の症状が、実際に全て出てきます。より正確な表現を使うと「激しい悲しみ」となるでしょうか。
支えてくれる環境であれば、今まで臨床的なうつ病のエピソードを経験したことがない人がうつ病になることはないものです。幼少期の喪失体験や虐待の経験があるとリスクが高くなりますが、必ずうつ病になるというものではありません。
アルコールを飲んだり、安定剤や鎮静剤を長く使ったり(2週間以上)、中枢神経系を抑制する物質は、しばしば悲しみをうつに変えます。薬を使うことやうつが心配なら、あなたのことを心配してくれる人に今の状況を説明して、家庭医やその他の適切な専門家に一緒に行ってくれるように頼みましょう。
死にたいと感じたらどうしたらいいですか?
離別した人のほとんどは、しばしば自殺を思わせる言葉を使い、ケアしている人を驚かせます。「私が死んでいたらよかった」とか「どうしようもないなら、なにもかも終わりにしたい・・」とか「こんな気持ちはもう続けられない/もういや」といったことを考えたり言ったりするかもしれません。
ほとんどの場合、どんなにいやな気分かを周りの人に伝えようとしているのであって、自分の命を絶つ具体的な手段を取る意図はまったくありません。実際、自殺による離別であっても、適切なサポートと理解が得られていれば、離別の結果自殺する人は稀です。
しかし、数は少ないですが、実際にリスクがある人がいます。自分のうつの気持ちとか、家族が明らかにうつであるといったことが心配なときは、すぐに家庭医に相談します。家庭医は、「正常な」悲嘆反応と臨床的なうつ病との違いをよくわかっている精神科医を紹介してくれるでしょう。
罪責感が消えないときはどうしたらいいですか?
離別に際して、全てのものに罪責感を感じることは普通にあることで、それは死の原因が何であってもそうですが、自殺のあとにはより強く感じます。 たとえば、亡くなった人にもっとはっきりと自分の愛情や理解の言葉を言ってあげていたらとか、傷つける言葉を言わなければよかったとか思います。その人の死を防ぐことができていたらとか、そこにいたった悩みを防ぐことができたらと、必ず考えるものです。
罪責感はもっともであることもありますが、ほとんどの場合、それは主観的な反応であり、まさに、大切に思っていた気持ちの表現なのです;とても大切に思っていたので、ふりかえって、死を防ぐためにできることがあればなんでもやったのにと思うのです。普通は、ケアしてくれる人に聞いて理解してもらうことで十分ですが、罪責感が侵入的で強迫的なときは、専門的なカウンセラーを見つけることが大切です。強迫的な罪責感をとめようとアルコールや他の薬を使うことは、問題を悪化させやすいです。