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07:スザヌ・フィシゥ さん(イギリス)

 日本の東北地方沿岸を巨大地震・津波が襲ったニュースを聞いたとき、私は、イギリスの大学の1年生でした。イギリスは、極端な気候の影響がないので、ニュースにある悲惨な被害の映像や画像を見ても実感が湧きませんでした。破壊の大きさや当時の人々の感情について想像することもできなかったのです。

 2年が過ぎました。私は、現在、福島県二本松にある小さな町に住んでいます。特に、西欧のメディアは、福島第一原子力発電所の爆発と、放射能の脅威を重点的に取り上げたため、福島は、「完全に危険な地域」という代名詞になりました。福島赴任の申し出を考え直すJET参加者の話も聞きました。私は、まず地図を見ましたが、福島が非常に大きな県で、赴任地が、地震や津波の被災地から数マイル離れていることを知りました。放射能レベルも充分モニターされていることも知りました。しかし、センセーショナルな記事を書く記者は、詳しい事情を削除してしまいました。
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 いわきスタディ・ツアーは、とても興味深く目からうろこが落ちる経験でした。瓦礫の山となっている久ノ浜の被災住居を見たとき、どこに浴室やキッチンがあったのか、家の土台に置かれたままのタイルの様子から知ることができました。犠牲者について生存者から話を聞いたとき、悲しい思いがしました。以前には知らなかった災害の現実性に触れました。
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 また、福島の方達が持つ真の回復力を見たとき本当に安心しました。東日本大震災で福島の評判が大きく傷つきましたが、一つのコミュニティとして、復興に向かって団結しています。いわきの蒲鉾工場が様々な風味を試み、独特の蒲鉾を製造して集客を試みる姿や、最も被害が大きかった被災地に商店街を建設しようとする住民の姿に感銘を受けました。
 地元のボランティアグループが、放棄農地に綿を栽培する姿や、いわきのトマトランドが再建する姿を見て感銘を受けました。
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 最後に、農業総合センターで、半導体検査器を使って、放射能検査をしていることを知り、安心しました。2011年3月には、世界中が福島を支援しようとしていましたが、放射能への不安から、支援の動きはいくぶん失われてしまったように感じます。私は、支援者の一人として、福島が制限区域だけできないことを誰にでも話すつもりです。福島は、美しく、生き生きしていて、その上ダイナミックです。世界中の人々に、そのことを知って欲しいです。まだ、長い道のりですが、コミュニケーションリンクを使い、世界から専門家を招き自分の目で確かめてもらい、正確で分かりやすい情報をひろげれば、福島は、予想より早く復興できると思います。
  

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