道路整備のはなし
道路整備課
橋梁のはなし
橋梁にまつわるはなしをご紹介します。
横向大橋(よこむきおおはし)
一般国道115号は、福島県相馬市を起点として阿武隈山系を横断し、福島市を経て吾妻・安達太良連峰の鞍部にある土湯峠を越え、耶麻郡猪苗代町に至る幹線道路である。 土湯峠は、幅員が狭いうえ、急勾配・急カーブが連続し、また、高い標高を通過するため、冬期5ヶ月間は3mを超す積雪で交通途絶を余儀なくされていた。これらの問題を解決するため、昭和55年から土湯峠の全面的な改良工事に着手し、土湯トンネルについては、昭和61年に貫通、現在残る工事を行っており、長期にわたり改良を行ってきた土湯バイパスが、近年全面開通する予定である。 横向大橋は、昭和58年度に国道橋梁整備事業で着手した橋長350m,幅員6.5(8.5)mの新設橋梁である。本橋は,平面線形でのアーチ形状に着目し,水平面内でもアーチ作用が働く構造系として立案された9径間連続曲線PC箱桁橋である。本形式立案の背景には以下のような条件があげられる。(1) 橋長350m,全橋長にわたり平面曲線半径250mの単曲線上にある。水平面内でアーチとしての“ライズ比”を考えると約1/5.5である。(2) 縦断勾配(4.8%),横断勾配(5%),幅員構成が全橋長にわたり一定である。(3) 両橋台位置は山肌に近く,中央付近に向かって深くなる谷地形を渡る橋である。(4) 支持地盤は安山岩または凝灰岩からなっている。(5) 磐梯朝日国立公園内に位置している。本橋は,昭和62年度から押出し工法により上部工に着手し,平成元年度に本体の架設が終了し,平成2年度に完成した。雄大な自然の中に素晴らしい景観美をもたらしている。
平成2年度には、土木学会より橋梁・構造工学に関する優秀な業績に対し送られる「土木学会田中賞」を受賞しました。
松齢橋(しょうれいはし)
2級国道福島〜浪江線(現 一般県道山口渡利線)の福島市と信夫郡渡利村(現 福島市渡利)にかかる,本僑は,阿武隈川をまたぐ橋である。明治初期までは信夫の渡し場として舟渡しされていたが,明治15年に15隻の船を使って架けられた延長120mの舟橋で,命名は県令三島通庸である。その後,明治末期の洪水にてたびたび流失し,村の消防隊・住民が必死の警戒にて舟橋を洪水から守った。明治43年,新たに架設した木橋は洪水により橋脚が流失し,落橋したこともあって,大正12年12月に福島市が工費288,391円78銭をもって着工し,現在のランガー桁橋になった。橋長175.8m,幅員5.04(5.45)mを構成し,大正14年6月に完成すると共に,県道に昇格した。その後何度か補修を行っており,昭和13年に地震のため電柱4本折損したので夜間照明が不能となり修繕している。さらに,25年度に橋梁補修として再塗装が行われている。59年には,橋梁全体の補修が行われ,損傷した部分を補足し,大正時代の面影をとどめている。
十綱橋(とつなはし)
本橋は,県道飯坂〜桑折停車場線(現 主要地方道福島飯坂線)にある。昔は今の飯坂温泉駅わきの摺上川下の川岸から湯野町橋本館の南にある柳の木の所に10条の藤の綱を張り,それに横木を結び板をわたして渡っていた。このことから「十綱橋」という橋名がついたのである。佐藤基治が大鳥城にこもっていた時,防備のため,この十綱橋を外した。そして西岸に大杭をうち,それに1条の大綱を結び,手で綱をたぐりながら舟で川を渡ることが明治の初めまで続けられていた。それで地元の人はこの場所を「十綱のわたし」といっていた。その後,明治6年(1882),熊坂惣兵衛と盲目の伊達一がこの交通の不便を解消するために寄附金の募集を行い,福島県に請願して橋の設計をしてもらった。そして木造の吊り橋を架けたが半年で落ちてしまった。これを知って安場県令は,県費を支出して今の橋本館・新館の所から斜めに架けたのが明治8年である。当時県費(官費)をもって橋を架けることはなかなか困難で,ほとんどは地域者の負担でまかなっていた時代であった。工費8,700円をもって架設した橋も明治16年に大修繕を加え,さらに24年県費700円を補助され,2,600円は伊達信夫両郡によって負担し大修繕を施工したが,漸次橋体は傾き,交通上危険のおそれがあるので架け換えが計画された。明治43年8月27日,大出水のため落橋し,45年4月より工費2,500円をもって修繕した。大正3年4月10日指定外工事として工費35,685円をもって架設工事に着工し,同4年9月に完成。現在の鋼橋(橋長54.0m,幅員6.8m)となった。昭和11年には,橋面舗装のため9月21日,トべカ式アスファルト舗装工事を施行し,同年11月に竣工している。さらに,昭和25年末に全面的に橋梁補修として塗装が行われている。その後も漸次補修工事が行われている。
※平成16年度土木学会推奨土木遺産に認定されました。これは、歴史的価値の高い土木構造物が認定されるものです。
高清水橋(たかしみずはし)
国道252号の三島町南部に位置する本橋は,阿賀野川水系一級河川只見川に架かる橋長320.0m,幅員6.1(10.0)m橋で深さ30mの谷間をまたぐために,上部工の形式選定に当たっては,経済的で外観が周囲,環境に調和した橋ということで,中路式ローゼ桁の構造形式で計画され,昭和52年度からのバイパス計画に合わせて着工し,昭和61年完成した。総事業費18億6,000万円。<高清水物語>奥会津と城下町若松をつなぐ昔の道は伊北街道と呼ばれ,宮下から沼沢を経て川口に通じていた。当時の土木技術は未熟で川幅50間,しかも激流砂をかむ只見川への架橋は不可能なことで,対岸との往来は渡し舟を用いた。江戸時代の高清水舟場は,越後から西方経由で入った塩や海産物を対岸の伊北街道へ渡す重要な基地であった。当時の伊北街道は駒鳴瀬峠や左うつぼなど,大難所の連続する要路で,駄馬の通行すら思うようでなく,このため産業・経済面での立ちおくれは著しかった。明治24年,地域住民の熱意が結晶して街道の一大改修工事を完成させて,新しい街道を作った。これが現252号国道の前身となった沼田街道で,宮下から高清水を通って川口に通じた。しかし宮下〜高清水間はまだ渡し舟でつなぐ状態で,初めて高清水橋が架かったのは,それから3年後の明治27年のことであった。これによって永年の悲願であった,若松から桧枝岐まで全線にわたる馬車道が開通したのである。奥会津の夜明けは,高清水橋の開通と共に始まったのである。
(以上、「福島県土木史」より抜粋)