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福島県と東海地方の歴史的なつながり

印刷用ページを表示する 掲載日:2018年6月22日更新

福島県と東海地方の歴史的なつながりについて

 平成30年(西暦2018年)は戊辰戦争が始まった1868年から起算して満150年に当たることから、「戊辰150周年」を記念する多彩なイベント(会津若松市で行われるイベントは会津若松市戊辰150周年記念事業をご覧ください。)が福島県内を中心に開催されます。ここでは、福島県と東海地方の歴史的なつながりについてご紹介します。
 また、過去に配信した情報につきましては福島県と東海地方の歴史的なつながり(過去情報)をご覧ください。

本ページに掲載されている情報

1 名古屋大学の礎を築いた須賀川医学校卒の後藤新平 
2 板垣退助を救った後藤新平と元福島藩士内藤魯一 
3 福島県岩瀬郡をルーツとする幕末の外交官岩瀬忠震
4 名古屋鎮台参謀長山川浩陸軍大佐も訪れた長篠城下の大通寺
5 近藤勇の首塚 愛知県岡崎市本宿の法源寺にあり NEW
6 松平氏の源流「松平郷」 NEW

名古屋大学の礎を築いた須賀川医学校卒の後藤新平

 名古屋大学の歴史は明治初期に設置された医学校が源流であり、1939年(昭和14年)の帝国大学設置もその流れを汲む名古屋医科大学が母体となりました。
 この歴史の中で大きな足跡を残しているのが、1881年(明治14年)愛知県医学校の学校長兼病院長に24歳で就任した後藤新平です。後藤新平は後に東京市長や鉄道院総裁など政治家として活躍することになりますが、もともとは医師でした。
 後藤新平が医学教育を受けたのが福島県の須賀川医学校です。後藤新平は仙台藩水沢城下の生まれですが、幼少の後藤の才能を認め支援していた胆沢県大参事の安場保和が福島県令に異動し、後藤新平は福島洋学校へ入学しました。
 その後、安場等の勧めがあり須賀川医学校に17歳で入学しています。ちなみに、安場は福島県令から1875年(明治8年)に愛知県令に異動し、ついて行く形で1876年(明治9年)愛知県公立病院に就職します。
 須賀川医学校は現在の公立岩瀬病院に併設されていたもので、岩瀬病院は1872年(明治5年)開設という全国でも極めて古い歴史を持つ病院です。
 なお、名古屋市千種区の名古屋大学博物館の大学沿革を紹介するコーナーでは、後藤新平が名古屋大学の教育風土にいかに大きな影響を与えたかの解説がされています。
 また、後藤新平が愛知県に来て最初に勤務した公立医学所・公立病院は名古屋市中区の堀川沿いにありましたが、そこには「名古屋大学の源流」碑が建てられ、若き日の写真が掲載されています。
名古屋大学① 後藤新平②

板垣退助を救った後藤新平と元福島藩士内藤魯一 

 後藤新平が名古屋大学の前身、愛知県の公立医学所の所長兼公立病院の院長をしていた頃、板垣退助が岐阜で演説中に刺客に襲われ負傷します。他の医師が尻込みするなか、後藤は岐阜に駆けつけ板垣を治療しました。
 この演説会に板垣とともに参加していたのが元福島藩士であった内藤魯一です。内藤は刺客をとって投げ、板垣の危急を救いました。
 つまり、福島県ゆかりの二人が力を合わせて、自由民権の頭首として藩閥政治に対抗する板垣退助を救ったわけです。
 時は1882年(明治15年)、福島県議会が全国に先駆けて開設された1878年(明治11年)の4年後のことです。
 そして、内藤は自由党の幹部として全国的に活躍し、愛知県会議員、国会議員を務めました。
 また、内藤は戊辰戦争時、福島藩板倉家の存続のため尽力した人物で、その結果福島藩は重原藩として現在の愛知県三河地方に国替えとなり存続しました。
(写真 左・後藤新平肖像、中央・内藤魯一肖像、右・内藤魯一とって投げの図(中央が魯一))
後藤新平① 内藤魯一①  内藤魯一③               

福島県岩瀬郡をルーツとする幕末の外交官岩瀬忠震

 岩瀬忠震は、黒船来航に激動する日本において、安政の五カ国条約締結に取り組んだ幕末の外交官です。アメリカのペリー、ロシアのプチャーチンとも互角に渡り合い、日本を開国に導きました。
 忠震は、設楽が原(現愛知県新城市)を領した設楽氏の三男として江戸で生まれ、岩瀬氏に婿養子に入り家督を継ぎました。当地は長篠・設楽が原の合戦で有名です。
 もとより岩瀬氏は福島県岩瀬郡の豪族二階堂氏がルーツであり、15世紀に三河に移ってきたと言われています(三河岩瀬氏)。その後今川氏、松平氏、徳川氏に仕えてきました。
 現在、新城市設楽原歴史資料館には、忠震の功績を称えた銅像が建っています。
岩瀬忠震① 岩瀬忠震②

名古屋鎮台参謀長山川浩陸軍大佐も訪れた長篠城下の大通寺 

 会津藩士の山川浩は戊辰戦争で各地を転戦し会津若松城籠城戦を指揮した武将ですが、その後明治政府で軍の要職に就き、一時期名古屋鎮台の参謀長であったと言われています。
 その時期に、長篠・設楽が原の合戦で有名な長篠城下にある大通寺(愛知県新城市)を訪れています。大通寺は甲斐武田氏の家臣団が戦いの前夜に別れの水杯を交わした泉があるところです。
 山川は、ここで「これまでと 汲みかわしたる杯の みづも身にしむ 長篠の里」という句を読んでいます。武田と会津の境遇を重ね合わせたのでしょう。(写真 上段・歌碑、下段・泉)
歌碑② 歌碑① 
大通寺井戸① 大通寺井戸②

近藤勇の首塚 愛知県岡崎市本宿の法源寺にあり NEW

 幕末、京都守護職会津藩主松平容保に従った新撰組局長の近藤勇は、千葉県流山で捕縛され打ち首となりました。遺体は故郷近くの竜源寺(東京都三鷹市)に埋葬されましたが、首は京都三条大橋に晒されました。
 しかし、3晩目に新撰組の同士会津小鉄が持ち去り、近藤が生前敬慕していた新京極の僧侶に埋葬を依頼したため、その僧侶が転任した愛知県岡崎市本宿町の法蔵寺に密かに埋葬されたのです。(埋葬地については会津説、京都説など諸説あり)
 法蔵寺は松平氏の初代親氏が深く帰依した寺であり、徳川家康が幼少期に学問に励んだ寺です。因みに本宿は豊臣秀吉によって滅ぼされた柴田勝家の子孫が元禄から幕末まで治めました。
近藤勇① 近藤勇② 近藤勇③

松平氏の源流「松平郷」 NEW

 愛知県豊田市の山中に「松平郷」があります。その名の通り松平氏発祥の地です。 
 室町時代、時宗の僧であった徳阿弥が東国からの遊行の途中、松平郷の在原家の婿に入り松平親氏と名乗ったのが松平氏の始まりとされています。
 父の長阿弥は得川有親といわれ戦に敗れ遊行僧に身をやつし、徳阿弥とともに東国は奥羽まで放浪していたといわれています。
 親氏はここに松平城と居館を建て、菩提寺である高月院を建立し、八幡神社を勧請しました。八幡神社は奥州塩竈神社を勧請したものとされています。
 なお、徳川家康は初代親氏から数えて9代目にあたり、岡崎城主から天下統一を果たし江戸幕府を開きました。
 また、江戸期に会津を治めた会津松平家の藩祖保科正之は家康の孫にあたり、幕政に参画し要職を務めました。
 松平郷には初代親氏の銅像が建ち、徳川三百年の礎となった地を静かに見守っています。
(写真 左・松平親氏銅像、右・家康産湯の井戸)
松平郷 松平②

※ 随時情報を追加していきます。

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