北海道に足跡を残したふくしまの人々
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赤城 信一 (あかぎ・しんいち)
旧会津藩士。会津若松の町医であったが、会津藩砲兵隊つきの医師として鳥羽伏見の戦いに従軍し、敗れて江戸に逃れ、その後会津に戻った。新政府軍の会津攻めの際は、会津藩に加わった西洋医学所頭取・松本良順のもとで負傷者の治療に努めた。漢方医であった赤城は、松本の西洋医学による手術をはじめとした治療法に驚嘆したと言われている。箱館戦争にも従軍し、旧幕府軍の負傷兵の治療に当たったが、新政府軍総攻撃の明治2年5月11日、函館病院分院(現高龍寺)で捕らえられた。(傷心惨目の碑参照)
戦後も北海道に残り、室蘭病院(現市立室蘭病院)の初代院長となった。
秋月 悌次郎 (あきづき・ていじろう)
旧会津藩士。名は胤永(かずひさ)、号は韋軒、日新館から幕府の昌平黌に学んだ秀才であった。京都守護職時代に諸藩周旋方(外交官)として活躍、文久3年(1863)薩摩の高崎佐太郎と会薩同盟を結ぶ端緒を開き、八・一八の政変を成功させた。しかし、禁門の変後、左遷されて東蝦夷代官を任じられ、慶応元年(1865)シャリ(斜里)に下った。ヒグマに遭遇して抜刀したこともあったと言われている。明治維新後は、請われて熊本・第五高等学校の漢文の教師となった。学識と人柄は生徒のみならず教師仲間にも慕われた。とりわけ「怪談」で知られる小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、秋月を深く尊敬した。77歳、東京で没。
[参考文献]
・北海道の不思議辞典 発行年 平成18年8月15日
編者 好川之範・赤間均
発行所 (株)新人物往来社
安孫子 倫彦 (あびこ・ともひこ)
旧会津藩士。会津藩士・岡本丈助の子として、安政4年(1857)若松城下鳥居町で生まれる。慶応3年(1867)安孫子家を継ぐ。戊辰戦争で実父丈助は自刃、兄岡本芳彦は白河で戦死。戦後、会津から斗南に移り住むが、明治8年(1875)北海道屯田兵に応募し、琴似(札幌市)に移住した。その後、西南戦争に出征、人吉付近の激戦で負傷し、琴似に帰還した。日清、日露戦争に応召、陸軍中尉となった。その後は、農業試験場の誘致に尽力するなど、琴似地区の発展に貢献した。墓は札幌市平和霊園にある。
なお、二男・孝次氏は札幌農学校を卒業後、農事試験場場長となり、退任後は北海道農業会会長、衆議院議員、琴似町長を歴任した。日本基督教会琴似教会の創設者でもある。
[参考文献]
・開拓使最初の屯田兵琴似兵村 著者 山田勝伴
・北のまもりと開拓 発行 会津武家屋敷
【安藤 孝俊】
北海道沿岸漁業の救世主で北海道水産界の天皇と呼ばれた。明治27年、岩瀬郡杵衝村(現須賀川市)に生まれた。大正5年に近衛兵を経て福島県の警察官となった。北海道庁産業部長に転出した上司に誘われ、大正12年北海道庁水産課に転職した。密漁監視官などを経験するが、漁民たちの暮らしが楽にならない仕込資本という悪弊に気づき、漁業運動に挺身する決意を固めた。まず、漁業協同組合連合会をつくり、国の低利資金を活用できる道を開いた。このことが功を奏し、道内各地に漁協が組織されるようになった。
昭和13年北海道庁職員を辞職し、保証責任北海道漁業協同組合連合会(ぎょれん)の専務理事に就任した。その後の安藤は、漁家の生活改善運動に邁進していった。昭和24年には道信用漁業協同組合連合会を組織し、自ら会長理事に就任した。ようやく漁業者は自前の金融機関を手に入れたのである。最終的には全漁連の会長まで務めた。平成2年に逝去。95歳であった。
【飯沼 貞吉】
旧會津藩士で白虎隊士中二番隊士。会津若松の飯盛山で自刃した20人の白虎隊士の中でただ一人生き残った。明治38年貞吉50歳のとき、仙台から札幌郵便局工務課長として札幌に赴任、道内の電気通信網が急速に拡充される中で電話交換機の取り替え工事の監督、電信電話線の架設や無線電信局の建設などで道内各地を歩き、5年間にわたり北海道全道の電気通信の発展に尽力した。
平成元年、NTTと地元有志らの尽力で、こうした功績を讃える記念碑「飯沼貞吉ゆかりの地」が居住地跡(札幌市中央区、現・札幌第一ホテル敷地)の一角に建てられた。毎年8月、福島県人会の会津会が献花式を行っている。
[参考文献]
・札幌にいた白虎隊士 発行年 平成元年8月23日
著者 金山徳次
【五十嵐 清】
明治37年福島県会津坂下町の農家に生まれた。県立会津農林学校を卒業後、北海道農事試験場の実習生となった。更に向学の精神に燃えて北大農学実科に入学し、特待生として昭和3年卒業後、北海道農事試験場に就職した。作物の改良、耕種技術の研究を重ね、昭和4年瀬棚試験場に転勤し、冷害対策に取組み、北海道の寒冷地農業に曙光を与え、農民の信望の的となった。
昭和25年からは雪印乳業から分離独立した雪印種苗(株)の専務取締役に就任し、その後社長、会長となった。長年にわたり、飼料作物採種事業を先駆者として手がけ、我が国の酪農畜産振興に多大なる貢献をした。
[参考文献]
・草原清風「五十嵐清伝」 発行年 昭和53年12月1日
編纂 五十嵐会長伝記編纂委員会
【上原 六郎】
旧会津藩士・雑賀重村の姉冨貴は、旧会津藩士・福井伊織に嫁ぎ、三女をもうけた。三女冨久は札幌平岸のリンゴ園主上原喜六に嫁いだ。冨久の長男上原六郎は官選最後の第四代札幌市長となった。雑賀重村の系譜をひく上原六郎は、敗戦直後の札幌市史に一瞬の光彩を放った。昭和39年東京で没。
[参考文献]
・幕末の密使 発行年 平成4年10月27日
著者 好川之範
発行所 北海道新聞社
【海老名 郡治】
旧会津藩士。父衛門季久が江戸湾防備で富津に在住したため、9歳から2年間富津に住み、黒船の来航を見た。また、父が東蝦夷常詰軍事奉行を拝命したときは、父に従って渡道し、戸切地(現北斗市)御蔵屋敷に住んだ。
文久3年(1863)父が隠居したため、20歳で京都のお使番となり、藩命で横山主税と共に徳川昭武に従ってフランスに渡り、パリの博覧会に使した。父衛門は白河戦で戦死した。
【大庭 恭平(おおば・きょうへい)】
旧会津藩士。天保元年(1830)江戸の会津藩邸で生まれた。京都守護職時代は、木像梟首事件に関わり、上田藩に監禁された。慶応3年王政復古により赦免され、戊辰戦争に従軍した。
戊辰戦争後、北海道に渡り、明治5年札幌の資生館という北海道で最初の学校の初代館長となった。その後、開拓使、青森県、若松県、秋田県、新潟県に勤め、最後は函館で属官となった。退官後は函館に閑居し、詩文や和歌を楽しんだ。明治35年病にて室蘭で没した。享年73歳。墓は不明である。
【梶原 平馬景武】
会津藩最後の筆頭家老。平馬は28歳の若さで筆頭家老になり、東北・越後の諸藩31藩を説き、北の意志をまとめあげ、奥州越列藩同盟を樹立した。戊辰戦争後消息不明となった。
昭和63年(1988)根室市営の西浜町墓地で平馬の墓が発見された。なぜ根室に来たかは不明であるが、根室では教職の水野貞子と結ばれて一女二男をもうけ、明治22年(1889)48歳で没した。
平成16年夏、平馬の曾孫2人が初めて根室の墓前に立ち、「詠歌・荒城の月」を捧げた。
【菊田 熊之助】
安政4年(1857)伊達郡大田村に生まれた。伊達郡大田村三代目村長であった菊田熊之助は、村民救済のため北海道への団体移住を決意し、村長を辞して明治31年近隣村を含めた128戸を引率し、旭川米飯(ペーパン)地区に入植した。北海道で最初に小作農組合(農民組合)を設立し、我が国初の小作農民解放運動を行った。大正3年、東旭川村長となり、村の発展に尽力した。
村長引退後、旭川市内に移り住んだが、健康を害して故郷の保原町に戻り、昭和15年、84歳で生涯を終える。現在、旭川市米飯地区では、稲作を中心とした農業が行われているが、入植者の団結は固く、「米飯福島県人会」や「ペーパン福島踊り保存会」を組織し、福島の郷土芸能を守っている。
昭和14年地区内の太田神社境内に氏の功を顕彰して銅像が建立されたが、この像は戦時中供出されたため、昭和38年、現在ある「菊田熊之助翁の壽像」が復元された。
[参考文献]
・大田の歴史 ―大地を継ぐー 発行年 昭和62年6月
編集 大田歴史編纂委員会
発行所 保原大田公民館・保原町教育委員会
・望郷 発行年 平成14年3月
発行者 ペーパン福島踊り保存会
【黒河内 五八郎】
会津藩士黒河内磯右衛門の二男。朝鮮人参の栽培技術に熟練していたので、万延元年(1860)箱館奉行所の招きで七重官園尾御薬園において人参栽培に従事した。 現在の七飯中学校の敷地近くに「牛馬の碑」が建てられ、その脇に銀杏の大木が繁っている。この場所が三嶋神社の跡地で、その隣接地の町営住宅「冬トピア団地」のあたりに、会津日新館の教授格であった黒河内五八郎の屋敷があった。
【雑賀 重村(さいか・しげむら)】
別名、一瀬紀一郎重村、画号暁川譜代の会津藩士であるが、祖先は紀州雑賀氏で、家老・一瀬氏とは別系である。天保7年(1836)に会津藩士の画人一瀬郷助重文の四男として生まれた。安政元年(1854)に平山謙二郎敬忠ら幕府使節に従い、19歳で初めて蝦夷地に入り、函館から宗谷を廻って各地でスケッチをした。市立函館図書館所蔵の「蝦夷回浦図絵」三十五景及び「甲寅蝦夷巡撫図」は一瀬紀一郎の作と言われている。
2回目の渡道は万延元年(1860)で、標津会所の代官として標津に赴いた。 慶応3年(1867)には幕艦「開陽丸」に乗込み、翌4年正月、艦長の榎本武揚の従者として大阪城に行き、古金18万両を江戸に移送した。この金は江戸に送られた後、行方不明になっており、五稜郭脱走軍の軍資金になったとも、赤城山の埋蔵金になったとも、言われている。雑賀自身はこの大金の行方については生涯何も語らなかった。戊辰戦争時は榎本海軍に入り、箱館戦争に参加した。戦後は北海道開拓使に勤め、茅部・山越郡長となった。また、室蘭港の開拓にも参与した。明治13年没、享年45歳。墓は函館市住吉町(石川啄木の墓の近く)にある。
なお、重村の姉富貴の孫は第4代札幌市長の上原六郎である。
[参考文献] ・幕末の密使 発行年 平成4年10月27日
著者 好川之範
発行所 北海道新聞社 ・蝦夷地御領分シベツ表ホニコイ 発行年 昭和60年3月31日
後陣屋御造営日記 編集 標津町郷土研究会
発行 標津町郷土研究会
【佐々木 初太郎】
福島県富岡町の生まれ。大正4年支笏湖畔に丸駒温泉を開業。2代目佐々木ヨシヱ氏を経て、現社長は3代目佐々木金治郎氏。佐々木氏は千歳福島県人会の顧問も務めている。現在も丸駒温泉は支笏湖観光の拠点となっている。 平成17年11月に「福島県と北海道との交流事業」の一環として、全国でもトップクラスの水質を有する猪苗代湖と支笏湖の流域住民の水環境に係る交流が行われ、丸駒温泉において交流会が開催された。
[参考文献]
・原始の森と湖に…… 発行年 平成7年9月 支笏湖丸駒温泉旅館80年 発行 丸駒温泉株式会社
【笹原 伝太郎】
旧会津藩士で白虎隊士中二番隊士。飯沼貞吉らとは別行動をとった。戊辰戦争後北海道に渡り、函館税関の官吏となった。
享保年間、会津笹原一族の先祖をモデルにした瀧口康彦原作「拝領妻始末」は、たびたび時代劇や歌舞伎の演目になり、平成17年、大阪・新歌舞伎座で杉良太郎氏(会津藩士・笹原与五郎役)が公演している。
[参考文献] ・北海道の不思議辞典 発行年 平成18年8月15日
編者 好川之範・赤間均 発行所 (株)新人物往来社
【佐藤 定右衛門】
寛政11年(1799)信夫郡飯坂町に生まれた。奥羽諸国を行商しながら蝦夷地に渡り、松前等で漁商となり、嘉永年間(1850年頃か)に松前藩の磯谷、歌棄、二場所の場所請負人となり、大漁業家として大いに栄えた。維新後は駅逓取扱人を命ぜられるなど、この地方随一の名家である。
また、安政3年(1856)私費で歌棄~黒松内、磯谷~岩内の山道を開くなど、積丹半島開発及び漁法改良に尽力した開発功労者としても著名である。定右衛門の孫の4代目榮右衛門は道議会議員を4期務め、その後衆議院議員となった。
佐藤家は、源義経の家臣、佐藤継信の末裔と伝えられており、佐藤水産の創業者である佐藤家とはともに飯坂町の豪商「佐半」の流れをくむ。
寿都町には明治初期に建てられた佐藤家の大屋敷が残されており、北海道有形文化財に指定されている。
【佐藤 三男】
マルダイ佐藤水産の創業者。大正3年、飯坂町の豪商初代「升権」の三男七太郎の三男として生まれた。昭和13年応召され、翌年札幌に転属。応召解除後も北海道にとどまった。昭和22年石狩にて漁業に従事し、その後独立して昭和29年、佐藤水産を法人化した。その後、サケ一筋で、佐藤水産を道内最大の水産加工業者に育てあげた。マルダイ佐藤水産の現社長は氏の長男の佐藤壽氏である。
[参考文献]
・自画自伝 北海道新聞に33回連載した記事
・廿七八年役日記 復刻 発行年 昭和63年8月30日
著者 佐藤七太郎
編集者 佐藤三男
・貫き通した文武商道 発行年 平成13年4月
発行者 佐藤壽
発行所 佐藤水産(株)
【白石 義郎(しらいし・よしろう)】
福島県出身。自由民権運動に参画し、福島県から衆議院議員に当選したが、憲政党内閣が成立すると、一旦政界を退いて北海道に渡った。その後、釧路支庁長に任命され、更に、町政施行によって初代釧路町長となり、ここを地盤に道議会議員に当選した。明治41年当時は、北海道議会議長で北海道の地元紙の小樽日報社と旧釧路新聞社の社長であった。この2社には石川啄木が記者として勤めていた。
白石は、明治41年5月の衆議院総選挙に釧路から出馬を予定していたため、釧路新聞の拡張をもくろみ、才覚のある啄木にその仕事を当てようとし、中野寅吉(福島県出身)との対立から小樽日報を退社した啄木を旧釧路新聞の編集長待遇で採用した。しかし、田舎新聞の記者をしていては中央文壇から取り残されるとの焦燥感に駈られた啄木は2ヶ月余りで退社し、東京へ戻ってしまった。
なお、釧路市にある「港文館」は、平成5年に旧釧路新聞社を復元したものである。また、啄木の旧釧路新聞社での様子は、小説「菊地君」の中で描かれている。
【住吉 貞之進】
旧会津藩士で白虎隊隊士。戊辰戦争後北海道に渡った。小樽量徳尋常高小学校長などを歴任した名物校長であった。顕彰碑が小樽市内にある。「南国土佐を後にして」「学生時代」などのヒット曲がある歌手のペギー葉山氏は貞之進の孫にあたる。
[参考文献]
・北海道の不思議辞典 発行年 平成18年8月15日
編者 好川之範・赤間均
発行所 (株)新人物往来社
【諏訪 常吉】
会津遊撃隊長であった諏訪常吉は、新政府軍の箱館上陸が迫った明治2年(1869)4月、上磯当別方面(現北斗市)に出兵した際、敵兵の目にとまることを想定して1通の置き手紙を残した。その文面は「小子儀(しょうしぎ)素より戦を好まずに候」と和平をはっきり表明し、自身の名も堂々と認めたものであった。これを黒田軍側の津軽兵が見つけ、薩摩藩に届けたことが、5月18日の「五稜郭無血開城」につながったと言われている。
しかしながら、諏訪常吉は4月29日、矢不来(やぎない)で負傷し、箱館病院に収容されたが、5月16日病院で死去した。39歳であった。新政府軍の箱館市中総攻撃の翌日である5月12日には、黒田清隆ら薩摩藩幹部が重傷の諏訪常吉を見舞ったと言われている。墓は函館市の実行寺(じつぎょうじ)にある。
[参考文献]
・北海道の不思議辞典 発行年 平成18年8月15日
編者 好川之範・赤間均
発行所 (株)新人物往来社
【諏訪部 信五郎】
旧会津藩士。明治2年10月24日の七重村の戦いに、砲兵差図役として参戦し、敵中に躍り入り奮戦するが、重傷を負い、鷲ノ木仮病院に送られた。その後、箱館病院で没した。享年19歳。墓は函館市の実行寺にある。
【関場 不二彦】
明治時代、我が国屈指の名外科医と言われ、北海道医師会及び札幌医師会の初代会長となった。
慶応元年(1865)会津若松に生まれた。明治22年東京帝国大学医科大学を卒業後、母校のスクリバ外科医局で外科学を専攻した。明治25年帝国大学の命により北海道庁に出向、同年9月に区立札幌病院(現市立札幌病院)第5代院長に就任した。翌年退職し「北辰病院(現札幌社会保険総合病院)」の前身となる「関場医院」を開業した。明治34年には「北海道医報」の前身とも言うべき「北海医報」が北辰病院研究会から創刊されるなど、北海道医学界に多大なる貢献をした。
【早山 清太郎(そうやま・せいたろう)】
札幌最古の入植者。江戸時代後期、福島県西白河郡に生まれた。嘉永5年(1852)蝦夷地に渡り、松前城の工事人夫をしていた。安政2年(1855)小樽に移り住み、漁場の番人をするようになった。清太郎は、この地方の気候などから農作物の成長についても調べ、石狩の役所に伝えたりした。その熱心な態度が認められ、安政4年、家族2人と十二軒川のふちに小屋を建て、田畑作りに励んだ。そして翌年の安政5年(1858)、石狩平野で初めての米作りに成功した。いままで米がとれないとされていたこの地方での産米に感激した箱館奉行は、清太郎に賞金を与え、また、数々の功績に、のちの開拓判官・島義勇は「早山は…わが北海の主人なり」と評している。
この後、清太郎は篠路村(現、札幌市北区)に移り、開墾を進め、道路を開いたり、学校を建てたりして、村の発展に尽くした。今も篠路には早川家があり、清太郎が植えた樹齢140年余のアカマツが残っており、北区の文化遺産八十八選に指定されている。また、かつての北海道小学郷土読本には「札幌でもこの人より早く来た人ないのだぞ。札幌神社もこの爺さんが場所をお選びしたんだとさ」と書かれている。龍雲寺の境内に墓がある。
【高田 富與(たかだ・とみよ)】
明治25年福島県石城郡(現いわき市)大野村に生まれた。明治35年家族とともに札幌に転居。北海道師範学校卒業後、小学校教諭となった。その後教職を辞して弁護士となった。昭和9年から札幌市議会議員を2期務めたあと、昭和22年に札幌市長となり3期務めた。昭和34年、衆議院議員に当選し2期務め、昭和38年に政界を引退した。
[参考文献]
・なぎさのあしあと 発行年 昭和45年10月31日
著者 高田富與
発行所 柏葉書院
【高橋 常四郎】
旧会津藩士。京都守衛常備隊に属していた。本名は恒道。歌人としても有名であった。戊辰戦争後の明治3年(1870)12月に斗南藩から北海道山越郡の開墾係を命ぜられ、10余戸30余人を引率して開拓に入った。これが八雲地方のおける集団入植の初めであった。しかし、開拓は成功せず、明治15年(1882)頃には入植者はどこへともなく離散してしまった。常四郎は斗南には帰らず、黒岩に移って農業を営んだ。明治8年神威内に移り、明治13年には岩内に移住し、教員となった。明治25年に「岩内古宇両郡同修舎(高橋私学校ともいう)」を起こし、地域の私学振興に尽力した。高橋常四郎小伝には「氏は国学万葉の造詣深く独特の教育方針をもって私学を経営し、10年の長きに亘り子弟の教育に尽す所多大なり」とある。
昭和39年、岩内町の大和公園内に氏の功績を頌徳する「高橋常四郎翁碑」が建立された。
【伊達 林右衛門】
初代林右衛門は伊達郡貝田村に生まれた。天明8年(1788)に初めて松前に渡航後、寛政5年(1793)福山に開店。増毛、浜益の場所請負人となり、漁業及び手船数隻を所有。寛政11年(1799)、幕府より東蝦夷地御用取扱方を命ぜられた。樺太の請負となり、代々伊達、江差等の開墾及び道路の整備に尽力した。また、間宮林蔵の蝦夷地踏査にも協力した。
【田中 玄純(たなか・はるずみ)】
会津藩蝦夷地常詰若年寄。安政6年(1859)会津藩は東蝦夷(標津、斜里、紋別地方)を領有することとなった。会津藩はまず若年寄・田中鉄之丞玄純を陣将代として派遣した。玄純は文久元年(1861)5月東蝦夷地に入り、領内を巡回し、警衛中の藩兵を督励した。帰国途中、分久元年9月2日、勇払(現苫小牧市)で病没した。墓は函館市高龍寺(傷心惨目の碑がある寺院)の裏墓地にある。
なお、玄純は家老・田中玄宰(たなかはるなか)の従兄弟の子で、嫡男源之進玄直は戊辰戦争時の猪苗代城代で、戦後は函館市相生町に住んだ。二男金次郎玄忠は戊辰戦争後、江差の裁判所書記となった。また、函館で看護婦、産婆として活躍した田中アイは玄純の三女八重の三女である。
【田中 林右衛門】
旧会津藩士。斗南から渡道し、七重官園職員となり、酪農を担当した。エドゥイン・ダンと親交があった。孫の勝彦は雪印乳業函館工場の相談役に就任するとともに、七重村(町)の酪農組合長、函館地区酪農農業協同組合連合会長として地区の酪農発展に尽力した。
【十倉 綱紀】
旧会津藩士。嘉永3年(1850)会津藩で検地地頭を勤める藩士の家に生まれた。日新館に学び、越後蒲原郡検地頭となった。伏見の戦いに参加し、敗戦後は高田藩預かりとなった。明治3年(1871)江戸にてフランス式軍隊に参加した。明治5年斗南に移住し、新渡戸伝に住む。同年斗南より単身北海道に渡り、行商や峠下道路工事人夫として働いた。警察仕官後、函館支庁民事課に勤めた。その後、開拓使八等属となり、島牧・上磯郡長、上磯村長を歴任した。晩年は七重村会議員を務めた。
【中野(小林) 寅吉】
明治12年(1879)福島県大沼郡赤沢村(現、会津美里町)に生まれた。苦学して東京専門学校法律科(現、早稲田大学)を出て、北海道に渡った。石川啄木の渡道当時は、啄木の義兄山本千三郎が駅長をしていた小樽駅の助役であった。その後、同郷の先輩山口喜一郎(当時「北海タイムス」の編集長)を通じて旧釧路新聞社社長の白石義郎(福島県出身)の知遇を得、明治40年(1907)9月創設成った「小樽日報」の事務長として入社した。記者として入社した石川啄木との間に社の内紛から来る対立が生じ、このことで啄木は退社した。翌年啄木は、釧路に向かうこととなるが、寅吉も小樽駅で見送ったと言われており、このとき、別離の悲しみに憎悪が消え、「別れ」の一瞬を詠んだ「敵として憎しみ友とやや長く手をば握りきわかれといふに」という啄木の歌がある。
のちに、啄木は文学へ、寅吉は政治の世界に進んでいくことになる。寅吉は大正末期に憲政会の代議士として活躍し、「蛮寅(ばんとら)」と言われた。晩年は旧会津高田町の法用寺の住職を務め、昭和60年、この法用寺に啄木生誕100年を記念して歌碑が建立された。刻まれた歌は寅吉との小樽駅での別れの歌である。
【南摩 綱紀】
通称八之丞、号を羽峰。日新館で抜群の成績を修め、江戸の昌平黌に学び、洋学も修めた。安政2年(1855)、関西諸国を歴訪し、その見聞記「負笈管見録」5冊を著し、藩に復命、文久2年(1862)に樺太に渡り、次いで東蝦夷地の代官兼普請方勘定所勤として慶応3年まで5年余をこの厳寒の地で過ごした。シベツに住居していたが、会津藩士やその子弟のほか、アイヌたちも学問を教えていた。後に日露戦争で戦死して海軍中将になった角田秀松は、シベツ派遣の藩医角田良智の息子で、シベツの東南約1粁の海岸にあるホコニイから南摩の自宅に通学していた。
【西 忠義(にし・ちゅうぎ)】
旧会津藩士。明治4年16歳で斗南藩若松出張所書記、若松県職員となった。明治21年の磐梯山噴火の現地調査報告の功により警視庁に抜擢された。明治34年浦河支庁長として日高に赴任し、明治42年小樽支庁長に転ずるまで、日高振興の施策を打ち立て、施設の整備、農林水産業の発展、日高民心の啓発に努めるなど、日高開発のため全力を傾注した。日高開発の恩人と言われている。
浦河町にある西舎神社(にしちゃじんじゃ)は西忠義を祭神の一神とする西霊社の後身である。
【二宮 尊親(にのみや・たかちか)】
安政2年(1855)、下野国都賀郡今市町(栃木県今市市)に二宮尊徳の子尊行の長男として生まれた。その後中村藩に招かれた父とともに相馬郡中村野(福島県相馬市)に移住した。相馬地方農村の建て直しのため興復社を設立するが、資金回収不能になり、休業同然となった。興復社再建のため、北海道開拓を決意し、十勝の牛首別原野(豊頃町)を事業地と定めた。
明治30年(1897)第1期移住民75名を引率し入植した。その後も入植は続き、10年後興復社の開墾の実績は840ヘクタールにおよび、宅地、防風林等も含めると、二宮農場は1345ヘクタールもの大農場となった。村づくり基盤が確立された明治40年、尊親は故郷の福島県に引き揚げ、大正11年68歳で没した。
現在、豊頃町は相馬市と姉妹都市となり毎年親善交流を行っている。豊頃町二宮地区では、尊親が初めてこの地を訪れ入植を決意した明治29年7月29日を「探検記念日」としており、毎年住民が集まり、二宮尊親の業績を偲んでいる。
[参考文献]
・二宮尊親の北海道開拓 発行年 昭和54年11月30日
著者 渡辺利春(豊頃町二宮農場生まれ)
発行所 株式会社龍渓書舎
【丹羽 五郎】
元会津藩士。丹羽家は会津藩譜代の家柄で、五郎は千石の丹羽家10代目である。17歳の時戊辰戦争に遭遇、容保の養子喜徳の側近として戦い、敗戦後、明治5年(1872)20歳で警視庁の邏卒となった。明治10年(1877)の西南戦争では25歳で三等少警部に昇進、別働第三旅団の警視隊となって従軍、最大の激戦場田原坂では、決死隊の官軍警視抜刀隊の幹部となり、宿敵薩摩藩士と白刃をひらめかして斬り結び、偉勲をたてて勇名をはせた。
その後五郎は、薩摩閥の横行する警視庁内で異例の昇進をし、明治21年36歳で東京神田和泉警察署長となり、明治24年警察署長を退官し、予て念願であった北海道開拓の夢を果たすべく実行に移した。
明治25年(1892)五郎は、猪苗代からの移民12戸、49名を引率して北檜山町(現せたな町)に入植した。大正3年、「丹羽部落基本財団」を設立し、農畜産物の改良・奨励や道路、神社、説教所、教育施設の建設に貢献し、せたな町「丹羽地区」の今日の繁栄と発展をもたらした。
[参考文献]
・ひらけゆく丹羽 発行年 平成3年3月
編集 ひらけゆく丹羽編集委員会
・北檜山町史 発行年 昭和56年12月1日
発行所 北檜山町
・我か丹羽村の経営 発行年 昭和3年7月20日
著者 丹羽五郎
【野口 富蔵】
旧会津藩士。箱館にきて英語を学んだ。初めはイギリス領事ヴァイスについたが、慶応元年(1865)在日イギリス公使館の書記官アーネスト・サトウの秘書召使となった。当時、東蝦夷地領有のため蝦夷地には200人ほどの藩士が派遣されており、若松城下から箱館へは比較的容易に勉学ということで出国することができた。これも会津藩の東蝦夷地領有の結果であろう。
[参考文献]
・北のまもりと開拓 発行年 平成5年5月
―会津藩と北海道― 編集 会津武家屋敷 文化財管理室
発行 会津武家屋敷
【原 直次郎】
白虎寄合一番隊頭、原早太の二男として安政元年(1854)会津若松に生まれた。明治3年(1870)、斗南藩主松平容大に従って陸奥国三戸郡に移住した。東京で学んだあと、明治5年単身函館に渡り開拓使に勤務した。開拓使廃止後、北海道庁勤務となり、後に苫小牧村外十五ヵ村戸長兼北海道庁警部となるが、明治21年退職、苫小牧市において実業界に転身した。各種組合の代表を務めるとともに、王子製紙の誘致に大きく貢献した。大正元年(1912)58歳で病没した。
直次郎の六女原小牧は大正13年、苫小牧女子技芸学校を創設し、小牧の長女芳子が引き継いだ。昭和36年、夫山口光一氏とともに、学校法人苫小牧中央高等学校を設立し、山口芳子氏は「学校法人原学園」の現理事長である。
[参考文献]
・武家社会に生きた人々 発行年 平成3年9月15日
―会津藩・原氏の一系譜よりー 著者 山口光一、池田富重
発行者 山口光一
【広沢 安任(ひろさわ・やすとう)】
旧会津藩士。文久2年(1862)露西亜との国境交渉の随員に抜擢され大間より箱館に来た。会津落城後、斗南藩で権大参事山川浩を補佐し、後家再興に立ち向かった。七重村で洋式農業を学び、ガルトネルの感化を受けた。明治5年(1872)、青森県三沢市に日本最初の洋式牧場・開牧社(のちの広沢牧場)を開設し、牛馬の育成に成功した。
また、斗南の窮士を救うため、知己の関係にあった内務卿・大久保利通を通して斗南県と弘前県の合県運動を進め、青森県誕生の立役者の一人となった。
なお、元青森県知事の北村正哉氏は、開牧社の会計方や青森県牧場取締として活躍した旧会津藩士・北村豊三の子孫である。
[参考文献]
・北のまもりと開拓 発行年 平成5年5月
―会津藩と北海道― 編集 会津武家屋敷 文化財管理室
発行 会津武家屋敷
・特別展「七飯の源流を探る」5 発行年 平成14年8月
―会津の人々と七飯― 発行 七飯町歴史館
解説資料
【古沢 幸三郎】
旧会津藩士。歌人としても知られた。天保3年(1832)会津若松上小田垣に生まれた。後に古澤籐八の養子となった。戊辰戦争時は敢死隊指図役。明治3年斗南の安渡村(青森県下北半島)に移住した。翌明治4年に北海道に渡り、余市に入植した。古沢は柔術真砂流の免許所有者で、入植地に設けられた講武所の師範を務めた。また、余市郡副戸長、余市郡・部、川村、浜中、仁木各村の戸長も務めた。
明治33年69歳のとき、作歌二百余首をまとめた歌集「貝ひろひ」を出版した。小樽興風会の大竹元一と親交し、「蝦夷錦」に参加した。和歌を通して地域の文化活動に貢献した。大正3年、83歳で没。
[参考文献]
・サムライ移民風土記 発行 昭和63年3月20日
著者 栗賀大介
発行所 (株)共同文化社
【星野 義信】
旧会津藩士で白虎隊隊士。嘉永6年(1853)岩代国会津郡若松の柳原で生まれた。慶応4年(1868)会津藩白虎足軽隊に編入。戊辰会津戦争では籠城して戦った。東京で謹慎後、斗南(田名部)に移住した。明治7年には、青森県小泊村で簡易小学校を開設し、首座(校長)となった。明治9年函館に渡り教員となった。その後、開拓使根室支庁に奉職し、明治12年には、根室測候所の初代所長となった。空知監獄署、夕張郡役所勤務を経て、明治23年歌志内で寺子屋式教育場を開設した。晩年は歌志内役場で筆生として勤務した。明治42年57歳で生涯を閉じた。平成2年に歌志内市東光6番地に建立された「歌志内教育発祥之地」碑は、星野ゆかりの碑である。
また、義信の子の星野純逸(じゅんいつ)は、札幌農学校で作家の有島武郎と同級生となった。有島武郎が書いた、明治32年の札幌農学校を舞台にした小説「星座」の主人公「星野清逸」は、星野純逸がモデルとされている。
[参考文献]
・会津白虎隊士の涙 発行日 平成16年2月7日
著者 星野達男
制作協力 北海道新聞社出版局
【箕輪 醇(みのわ・じゅん)】
旧会津藩士。天保11年(1840)会津藩に生まれた。戊辰戦争に敗れた後は、下北半島に強制的に移住させられて、飢餓状態に直面した斗南藩の人々の北海道移住を計画し実行した。明治3年ガルトネル農場に入塾した。当時の西洋農業を代表するプロシア農法を真剣に学んだことが、著書「伝習雑記」により知ることができる。
元京王帝都電鉄(株)社長の箕輪圓氏は箕輪醇の末孫にあたる。
【宗川 熊四郎茂友】
旧会津藩士。宗川家は会津藩主8代容敬、9代容保の侍講として仕え、茂友は天保元年、若松城下に生まれた。戊辰戦争では朱雀隊士中隊半隊頭となった。敗戦後の明治2年、蝦夷地行旧会津藩士団の隊長として渡道した。
余市に入植し、総取締となり開拓と入植者のまとめ役として活躍した。開拓が軌道に乗ったことから、宗川一家は明治11年会津若松に引き揚げた。
【山川 浩】
旧会津藩若年寄。元東大総長・山川健次郎と鹿鳴館の華とうたわれ日米親善の先駆者となった大山巌夫人捨松の兄である。慶応4年(1868)江戸でフランス式軍事訓練を受け、日光口副総裁として新政府軍と戦った。降伏後は「斗南藩権大参事」となり、廃藩後は陸軍省に入り少将まで進んだ。東京高等師範学校長も兼務し、貴族院議員となった。弟健次郎と共に編集した「京都守護職始末」は維新史の新生面を開いた。
【山田 貞介】
旧会津藩士で斗南藩出身。札幌農学校兵学別科卒業後、見習士官に任官し、明治35年の退役まで28年間、各地の新しい屯田兵村の指導者として、兵農両道に活躍した。屯田資料「山田文庫」を道立図書館に寄贈した。
明治11年生まれの長男・勝伴氏は札幌農学校卒業後、道庁殖民部技師となり、アメリカ、デンマーク、ドイツなど農業先進国を視察研究し、北海道の農政改革と農業の発展に大きく貢献した。
【渡部 久馬】
旧会津藩目付。天保11年(1840)9月23日生まれ。明治14年家族とともに北海道に移住した。直心影流免許皆伝の久馬は七重に剣道場を開き、多くの門弟を指導した。大正15年10月28日没。
孫の渡部全一(たけかず)氏は食糧雑貨屋(まんじゅう屋)を営みながら、昭和34年から永年にわたり七重町議会議員を務めた。平成9年没。墓は宝琳寺裏の七重町営墓地にある。
【渡部 精司】
文久2年(1862)会津若松で、薬種御用商人の子として生まれた。明治15年(1882)年、北海道開拓を志し北海道に渡った。紋別で入植地の調査をしていたとき、ハッカが自生しているのを発見した。明治18年ごろになると日高地方の門別や渡島地方の八雲、旭川市の永山などでハッカの栽培が始まった。
精司はサロマ湖などで山形県から苗を取り寄せて試作を続けたが失敗が多かった。しかしながら、明治29年に1アールの畑地で栽培に成功し、やがて世界一のハッカ生産地となる北見地方での栽培の端緒を開いた。